ポーランド旅日記NO.3 旧ナチスドイツ軍強制収容所 アウシュビッツ ビルケナウ
2010/6/16 水曜日 (世界遺産)
旧ナチスドイツ軍強制収容所 アウシュビッツ ビルケナウ
ここは、アウシュビッツを知らない人の為に詳しく書きましょう。
第二次世界大戦中のナチス旧ドイツ軍の一大殺人工場です。
何十万人もここへ送られてきて全員殺されたところです。
その中には、ユダヤ人が90%位で一番多いがヨーロッパ中の人達も連れられて来ていた。
基本的には当時のまま残っているようです。
結構重い話なので戦争時代が嫌いな方や苦手な方は読まないで下さい。
建物の玄関と玄関近くにあった昔の地図
まず収容所の入り口
収容所の入り口でARBEIT MACHT FREI 働けば自由になると書いてある有名な門です。
これを作ったのも収容者。
Bの文字が上下逆さまで収容者のせめてもの抵抗の証と言われています。
収容所で働ける人は成人の健康な人達だけ、子供や年寄りは直ぐにガス室へ
選び方はドイツ監視が右左と分けていただけのようです。
次の写真は生きて出られた方が書いた絵のようです。
生きて出られたのは旧ドイツ軍が戦争に負けてからだと思います。
ここから段々と重くなります。見ないほうがいいかも?
ガス室の大量殺人に使われたチクロンBという激薬
多いときで一度で120人位と言っていました。
ガス室に送られる前に裸にされ。奪われた、衣類、義足、義手、メガネ類
囚人の髪の毛です。当時の物です。
殺される前に切られ、その髪の毛はじゅうたんになっていたようです。
囚人から奪われたメガネ類
囚人から奪われた義足や義手類
囚人から奪われた靴類
囚人から取った身の回りの物を入れてきたトランク
良い場所に移動すると言われ家の財産も入れてきていたようです。
囚人達からは金歯やら銀歯も取られていたとか。
子供の靴や人形も多くありました。
ライフ・イズ・ビューティフルを見たことがありますでしょうか?
あのお父さんの気持ちが分かります。
囚人が入れられていた部屋です。
ここが死の壁。銃殺の壁です。収容棟のすぐ脇です。
良く見るとドイツの国旗色、イタリアの国旗色、フランスの国旗色も見えます。
囚人が引いていたドラムと言っていました。
走って引かされていたとか、これに引かれて亡くなった人もいたようです。
次の写真は収容所から脱走を助けた囚人を見せしめに公開処刑された犠牲者の写真です。
次の写真の場所だと思います。何日もそのままにされていたとか?
次の写真は首吊り台。ガイドさんに聞いたら当時の物だと言われました。
次の写真は、第一収容所のガス室です。
ここの広さは小さめです。後で第二収容所のガス室にもふれます。
裸にされギュウギュウに詰められ上から劇薬チクロンBを・・・入れてから15分だと言っていました。
3時間~4時間そのままにして死体を出していたとか・・・
次の写真は見ての通りお分かりだと思います。(天井は灰で真っ黒でした)
ここに連れられて来た人は一旦は収容されていたのです。
収容されずにそのまま電車に乗ってきてガス室に送られた人のほうが多いようです。
収容場所がなく第二収容所も作ったがそれも間に合わないとのことでした。
後で第二収容所のことにも触れたいと思います。
囚人の監視約も囚人で階級をあたえてヤル気を出させていたそうです。
団体部屋では無く個室を与えたり。女性ではボーズの人と髪の長い人で階級分け。
長く生きたく、でもどんなに頑張っても3ヶ月で殺されたとガイドさんが言っていました。
ここは本当にひどいです!囚人を使った人体実験の棟。
囚人を餓死させる餓死室。狭い部屋に数人の人間を閉じ込める立ち牢。
いろいろ考えさせられる所です。
ここから第二収容所(ビルケナウ)
この写真は映画やドラマでも見た人は多いと思います。白い巨塔でも出ています。
死の門とも呼ばれています。
次の写真は当時の電車だそうです。
何両にも繋がりここへと運ばれてきたようです。
動物や家畜を運ぶコンテナです。水も与えられず70人位つめられて運ばれたらしいです。
画像は当時の写真です。
この人達は強制的に連れられてきています。子供の写真も。
1枚目の写真に旧ドイツ兵の右手の影が見えませんでしょうか?
ただこの左右の分け方だけだったようです。
次の写真は第二収容所のガス室です。証拠隠滅のために旧ドイツ軍が撤退の時に壊したとか?
ここが120人位入れられたガス室。ここで何も分からす裸にされたようです。
死体を火葬?焼却?一応ここでは火葬と。
火葬も間に合わず死体を重ねて野焼きする写真もありました。
慰霊碑
第二収容所の収容棟(バラック)
次の写真はベットとトイレ
なぜここが出てきたかは旧ドイツ軍が戦争に負けたからです。
それまでは何処の国も分からなかったようです。
赤十字?国連?国連なんて昔にはないか?
どこかが視察に来ても良いところしか見せなかったとか?
分かっていた人もいたようですが軍には何も言えなかったらしいです。
このころの旧ドイツ軍と旧日本軍は同盟国です。
なぜ強制収容所を作ったか。なぜユダヤ人ばかりが多いか?
それは後でお伝え致します(- -)
ここは世界遺産です。将来のために世界遺産になりました。
学生の団体旅行生も多く来ています。ドイツの方々も来ています。
広島の原爆ドームもそうですが戦争をしてはいけないと将来に残していく。
今のこの場所は若い学生達も多く暗いイメージはありません。
この日記を書こうと思ったのは少しでも多くに人たちに
戦争の事を多く知って頂きたく書きました。
ここには日本人のガイドさんがお一方いらっしゃいます。
そのガイドさんも日本の多くの方に知っていただきたく発信をしていると言っておりました。
私も多少の力になれればと!
行く前にシンドラーのリストも見てください。
強制収容所でも軍に逆らい何千人も助けた人もいます。
ポーランドに行く機会がありましたらお花でも供えてきてあげて下さい。
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